福沢諭吉が見た150年前の世界

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皆さんは福沢諭吉というとなにを連想しますか?たぶんほとんどの人は1万円札のお札の人か慶応義塾大学の創設者を連想する人がほとんどだと思います。

福沢諭吉がなにをしてきた人なのか詳しく知らない人が多いはず。自分もその一人です。

最近「福沢諭吉が見た150年前の世界」という本を手に取り興味深かったので購入。

福沢諭吉はどんな人?
豊前中津藩(大分県中津市)の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれました。
2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けました。
14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学び、その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で学ぶようになります。お金がなく、途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなりました。

彼が2歳の時に父が亡くなり大分に戻るわけですが、武士にも下級、上級というのがあり、彼の家は下級の身分でした。そのせいで上級の子供から馬鹿にされたり、いやがらせを受けたりし大変苦労したとか。

外国に興味を持つきっかけ

彼が25歳のころ蘭学(オランダ語)を猛勉強中で江戸で蘭学塾を開いていました。このころの日本はちょうど日米修好通商条約を結んだばかり。

ここで横浜に出向くわけですが居留地には英語かフランス語しかなく彼は大変ショックを受け「世界で通用するのは英語かフランス語」という考えに至ります。

当時オランダ語を学ぶことすら最先端だったのに英語を学ぼうとする姿勢は好奇心旺盛であり、先見の明があると思います。

アメリカへ

幕府海軍の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が、サンフランシスコに行くという噂を聞きつけた諭吉は、どうにか一緒に連れていってもらえないものかと知り合いのツテを頼って、咸臨丸の艦長・木村に会いに行き、アメリカ行きを懇願します。

結果はというとすんなりOK

なぜならと言うのも、ほんの数年前まで鎖国をしていた日本にとっては、外国なんて宇宙みたいなもの。
「海外旅行」なんて、恐ろしく命がけのことで、海軍の上官の家来でさえも行きたい人なんて居なかったのだ。そんな中で自分から船に乗りたいなんて変わり者。彼には好奇心だけでなく人並み外れた冒険心もあったのでしょう。

 

当時の船賃は?

当時の船にも今と同じようにランクがあるわけですが。それがべらぼうに高い。一番安いランクで300万!そして一番高いランクでなんと7200万!!

とんでもない金額ですね。それも一番安いランクでは船員とおんなじ部屋になるなど待遇は最悪。

当時に日本ですからチケットの手配などなく騙される人が大変多かったとか。そりゃ当然ですね。

アメリカに行って驚いた

アメリカについて大歓迎を受けた諭吉たち。ですがアメリカで驚くことばかり。

氷に驚く

出された酒に氷が入っていたことに驚きそれもコップに浮いていたのを口に入れてから氷に気づいたとか。日本では冬の間に作っておき夏まで保管する氷室というものでしていました。また特別な時にしか使用せず一般人が使うことはなっかった用です。

レディファーストに驚く

江戸時代では現代よりはるかに男尊女卑の社会で奥様という呼称は奥にいるから奥様で表に出ることのない存在だったのです。

アメリカでは女性が表に出て男が奥に引っ込んでいた。そういう形で女性と接する機会がなかった諭吉は違和感しかなかったでしょう。

ワシントンの子孫を誰も知らない

諭吉があることが気になりアメリカ人にワシントンの子孫はどうしているのか聞いたところ全く知らないという返答がきた。江戸時代の日本人から見れば鎌倉幕府を開いた源頼朝や江戸幕府を開いた家康のような存在のワシントンの関係者をしらないということに大変驚いたようです。

 

 

好奇心は止まらない

このアメリカ渡航以降明治維新までにヨーロッパ、アメリカにいくのですが当時の日本で3度海外に行くなんてほんとに好奇心旺盛だったんですね。その経験が慶応義塾大学創設に活かされたのでしょう。

それにしても福沢諭吉が海外に行ってから150年しかたっていないのが驚きですよね。世界が変わるスピードは速いと考えさせられます。

 

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